4月
03

壱岐は神々が住まう国防の島

壱岐は観光資源が豊富で魅力があります。海女さんの素潜り漁によるウニ、海のミネラルがいっぱいの壱岐牛、麦の香りと米の甘みが特徴の壱岐焼酎、碧く輝く筒城浜や辰ノ島などの海水浴場、歴史を感じる遺跡・史跡などです。特に感じたことは、神社の数が多いこと、そして、国防を考えざるを得ない島であることです
今回は、その一端なりとも紹介させていただきます。

●壱岐は神々の島
壱岐は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に「一支国」として登場します。大陸と日本とのかけ橋となった「一支国」は交流・交易の拠点として大きな役割を果たしました。また、最古の歴史書『古事記』における伊邪那岐命・伊邪那美命の国生み神話において、大八島と言われる日本の国土の中で5番目に生まれたのが伊伎島(いきのしま)【壱岐】とされています。壱岐は神々の島と呼ばれ、島内には由緒ある神社が数多く存在します。

(月讀神社↓)

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(天手長男神社:壱岐国一の宮↓)

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(神功皇后を祀った聖母宮↓)

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(神功皇后の馬蹄石↓)

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●猿岩
猿岩は黒崎半島の先端にあります。そっぽを向いた猿にそっくりで、観光でも人気があります。壱岐島誕生の神話によると「壱岐の国は生き島である。神様が海の中でこの島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと八本の柱を立てて繋ぎました。その柱は折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれている」とあり、その八本の柱のひとつが猿岩とされています。

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●元寇―平景隆、少弐資時が守った島
平景隆は壱岐国の守護代。1274年「文永の役」の時 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、矢を射かけて蒙古軍を迎え撃ちました。しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もるも、蒙古軍の猛攻のなか、城中で自害します。守備軍の崩壊により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害されました

(平景隆の墓↓)

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(景隆をはじめ元寇で殉難した将兵諸神を祀った新城神社↓)

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(蒙古襲来で命を落とした人々を埋葬した千人塚↓)

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少弐資時は、1274年の文永の役で、12歳で初陣。博多湾岸に上陸してきた蒙古軍に向かい、一番に名乗りかけて矢合わせをしたことで、その名が知られています。

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その後、文永の役で平景隆が討ち死にしたことにより欠員となっていた壱岐守護代の後任となって弘安の役を迎えました。1281年の弘安の役では、祖父の少弐資能や父の少弐経資らとともに日本軍を率いて壱岐島を占領する東路軍に対する攻撃で戦死しました。享年19でした。祖父の少弐資能や父の少弐経資もこの戦闘で負傷。この壱岐島の戦いで敗退した東路軍は壱岐を放棄して平戸島に移動しました。後に叔父の少弐景資は、鷹島で蒙古軍を殲滅しました
少弐資時は、壱岐神社・壱岐護國神社の祭神として祀られており、また、隣接する少弐公園には、「ショウニイさま」と呼ばれていた少弐資時の石積みの墓があります。

(壱岐神社・壱岐護国神社↓)

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(弘安の役古戦場↓)

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(烽火台↓)

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(少弐資時の墓↓)

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●黒崎砲台
東洋一の砲台であった黒崎砲台は、対馬海峡を航行する艦船を攻撃する目的で設置されました。砲台は口径41㎝、砲身18㎝の2連砲で戦艦の主砲が取り付けられており、普段は地下に潜り、海上からは見えない構造でした。一度だけ試射されましたがその射程距離と破壊力は、東洋一というだけあって近くの民家の窓ガラス等はすべて割れたほどだったといいます。

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