壱岐の石田町に「電力の鬼」「電力王」と言われた松永安左エ門翁の記念館があり、訪問しました。
松永安左エ門翁は、明治・大正・昭和の三時代にわたり、日本の電力の普及と振興に努め、日本の産業経済発展の基礎を築いた偉大なる先覚者です。
記念館に入って資料を見ていると、そこに2006年6月号の『ザ・リバティ』が。
(松永安左エ門記念館にあった『ザ・リバティ』↓)
館長さんによると「ザ・リバティには松永安左エ門翁の特集記事があり、ずっと資料として置います」とのこと。『ザ・リバティ』は、私たちHSグループが発行している月刊誌なので、10年間も大切に置いて下さっていたことが、何よりも嬉しかったです。
(館長さんと↓)
館長さんと松永安左エ門翁について有意義な意見交換をしました。知れば知るほど偉大な方というのが実感。館長さんもとても良い人で、教養深く、何よりも安左エ門翁を深く愛し、尊敬されているのが伝わってきて、心が洗われる思いがしました。壱岐に行かれた時は、是非、松永安左エ門記念館に行かれることをお勧めいたします。
(松永安左エ門翁の銅像↓)
松永安左エ門翁は、明治8年、長崎県壱岐市石田町印通寺浦で生を受け、少年期を壱岐で過ごしました。
(松永安左エ門翁の生家↓)
その後、上京し、慶応義塾に通います。福澤諭吉先生の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉先生の謦咳に接するようになりました。卒業まであと一年のとき、学問に興味が湧かなくなったことを諭吉先生に告白すると「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう」と勧められて退学。日本銀行や福松商会に勤めました。その後、自らの会社の経営をはじめ、次々と新たな事業を展開していきます。
(福岡市を走っていた市電↓)
(市電を置いている由来↓)
(松永翁の傘下にあった企業↓)
特に電気事業に立ち向かう姿は「鬼」のようでした。戦後「日本の復興は“人心の高揚”と“エネルギーの拡大”を無くして発展なし」と考え、超人的な働きをしました。
(松永翁写真:記念館パンフレットより↓)
「自由のために、民営化のために、ここまでするか」と言われていました。松永安左エ門翁が、非難の嵐に屈せず「千万人と雖も我往かん」の精神で戦い抜いたからこそ、電力の民営化も、戦後の経済発展も実現したと言えます。
戦後、電力9社体制を確立した時、安左エ門はすでに77歳になっていました。80歳になると、欧米に80日間かけて視察旅行に出かけます。そこで戦後のあるべき復興の姿を頭に描いた安左エ門翁は、帰国すると「産業計画会議」を設立。民間の各界から優秀な専門家を集めて、将来の経済計画を練りました。そこで「東京―神戸間高速道路」「東京湾埋め立て計画」「東京湾横断道路」「国鉄改革」「たばこの民営化」などを勧告。驚くべきことに、現在、そのすべてが実現しているのです。先見の明がありました。
その不屈の闘志はどこから来たのか。その鍵は、生前好んで使っていた「勇気ある自由」という言葉にあります。安左エ門翁は自由こそ民主主義の本質であり、資本主義の魂だと考えていました。それは「信仰」と呼べるほど強固な信念だったようです。
「『個』の自由は根源において霊的であり、神と通ずる信念であり、純粋の人間性を保持するもの」「自由とは己れの上に良知をもって律する人間本来の宗教心である」。
宗教的信念に裏打ちされていたからこそ、安左エ門翁の説く自由は、激動の時代にあって大きな事業を成し遂げる力となり得たのでしょう。
参考:2006年『ザ・リバティ6月号』