衆院予算委員会で、憲法論議がありました。
「憲法とはどのような性格のものか」という問いに、安倍首相は以下のように答えました。
「考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある」と。これはオーソドックスな憲法観であり、立憲主義と言われるものです。
さらに、安倍首相は次のように踏み込みました。
「しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今の憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う」
これは非常に根源的な論議です。
この後者の安倍首相の発言に対して、朝日新聞は社説で「首相の不思議な憲法観」として、「とても同意することはできない」と切って捨てています。
しかし、憲法には「近代的意味での憲法」として、国家を縛るものという憲法観があるのはもちろんのこと、「本来的意味での憲法」として、国の組織や在り方、仕組み、そしてその仕組みが出てくるに至る政治的伝統や文化をあらわしたものという憲法観もあるのです。
例えば聖徳太子の“十七条の憲法”は成立以来、日本の精神的土壌の形成に多大な影響を与えてきました。それは、日本にとって豊かな国民性となり、幸福に作用しました。
憲法学者のなかには「憲法には、人間の生き方など、主観的なものは入れるべきではない」と考える人もいるのですが、それは間違いです。
憲法は国民の拠り所になるものなので、すべての党派や宗派を超え、人々が国民として生きていくための規範、進むべき方向を指し示すべきです。
朝日新聞の主張からは、人間というのはこの世に偶然に投げ出された存在である、という人生観が透けて見えます。
「偶然に投げ出された存在なのだから、人間は不安定な世界の中でそれぞれ生きていくしかない。善悪を判定することも難しい。とりあえず、国家権力を縛る憲法だけを制定して、あとは人間は勝手気ままに生きるしかない」という感じでしょうか。
これは近代に出てきた実存主義という一つの哲学です。一つの哲学であって、決して普遍の真理ではないはずです。そして、その実存主義哲学では、人間の幸福とは何かが見えてきません。
人間は適当に生きている存在ではなく、目的を持った存在です。そして、人間はいかに生きていくべきかという問いは、人類が絶えず追求してきた命題です。
憲法が国の根本的な形をつくるものならば、人類が絶えず追求してきた命題に答えようとする努力をしなければならないのではないでしょうか。
会社に経営理念が必要なように、国家に理念がなければ、政治の方向性は定まりません。どんな組織にも理念がなければ、存在意義はないのです。単なる烏合の衆であったならば、何のために人が集まって組織をつくる必要があるのでしょうか。
やはり「本来的意味での憲法」も考えるべきです。
朝日新聞は憲法の一面しか見ていないのではないでしょうか。