先日、前内閣法制局長官の山本庸幸最高裁判事が、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認は困難だとの見解を表明しました。
最高裁の判事が、判決や決定以外の機会に、憲法にかかわる政治問題に対して見解を示すことは異例ということで、菅官房長官が「非常に違和感がある」とコメントしました。
最高裁判事が見解を示すことについての議論は、今回はしません。
山本判事の「集団的自衛権の行使容認は、憲法の条文改正によるべき」という意見は傾聴に値します。私も、現在の日本国憲法には欠陥が多いと感じており、根本的に改憲しなければならないと思います。ですから、山本判事も、そもそも論として、日本を取り巻く国際環境の悪化を懸念して、根本的に安全保障の強化をしなければならないという憂国の思いからの発言ならば、一つの見識として評価したいと思いました。
しかし、いろいろな報道を丹念に追っていくと、それこそ違和感を感じました。それは、山本判事の主張の奥には、「憲法解釈は内閣法制局の歴代長官の国会答弁の積み重ねであるべきで、法制局が憲法解釈を取り仕切ってきた慣例を死守したい」という思いが透けて見えるのです。
もっと簡単に言えば、「歴代長官の国会答弁を変えることは反対だ。もし集団的自衛権を容認するなら、憲法を改正せよ。であるならば、歴代長官の判断が間違っていたということにはならない」ということでしょう。結局、自分たちの保身としか感じられません。まあ、悪しき“官僚”の習性ですね。
このような最高裁判事に国家を語る資格はないのでは。次の衆院選の際の、国民審査で、最高裁判事としての適性があるかを審判する必要があるかもしれません。